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大村益次郎-花神-

大村益次郎-花神-

宇和島城下

宇和島城下

宇和島城下に在住の頃の名乗りは村田蔵六、のち大村益次郎は写真に見える宇和島港の入り口を防備する砲台の建築を行ったほか、日本で最初とも言える蒸気船を建造しました。

宇和島藩は村田蔵六の前は高野長英など、当時の言葉で言う蘭学者をとても大事にした藩としても有名です。

幕末維新の時代、宇和島藩は天下の四賢侯の一人、伊達宗城に率いられ四国でも最も交通の便の悪い宇和島にありながら日本の最先端を行く知識と技術を持っていました。
その一端を大村益次郎が担っていました。

彰義隊戦争

彰義隊戦争

事実上、大村益次郎の運命を決定したと言えるのがこの上野の山(当時は寛永寺の境内)で行われた彰義隊戦争でしょう。写真は上野の黒門跡を正面から見たところです。

彰義隊戦争の準備の段階で、大村益次郎は薩摩藩の西郷隆盛に、黒門から攻めるように言います。黒門は彰義隊の籠もる寛永寺の大手門に当たり、主力が配備されていることから、激戦が予想されました。黒門を攻めると言われたときに西郷は「薩摩兵を皆殺しにするつもりですか」と聞き返したという伝説があります。当時、薩摩兵は、長州藩の奇兵隊とともに最強の兵と言われていたので、敵の主力に対戦させた、純粋に戦術的な配備だったのですが、感情的なもつれがこれで決定的となりました。

彰義隊戦争は大村益次郎の予想道理、薩摩兵の奮闘と肥前佐賀藩のアームストロング砲の威力で官軍側が勝利しました。しかし、西郷本人はともかく、西郷配下の薩摩人達が大村益次郎を憎むようになりました。

その後、大村益次郎が大坂を訪れたとき、薩摩藩の有村俊斎(後の江田信義)が操った刺客によって暗殺されました。有村俊斎は彰義隊戦争の前後に大村益次郎を深く恨むようになっていたと言われています。

大村益次郎の像

大村益次郎の像

東京の靖国神社に建つ大村益次郎の像です。明治の中頃のまだ大村をよく知っている人たちが、第一線で活躍している時代に建てられたので、顔や服装、持ち物や雰囲気などが、おそらく当人そのままと思われます。とても高い台座の上に建つ像なので、特徴的な眉毛は、双眼鏡がないとよく見えません。

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