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秋月悌次郎-落花は枝に還らずとも-

秋月悌次郎-落花は枝に還らずとも-

会津若松

会津若松

秋月悌次郎は文政7年(1824)に会津藩士、丸山四郎衛門の次男として、会津若松に生まれました。その後、悌次郎の才が認められて、新たに「秋月」の家を興すことが許されました。

韋軒先生の魅力

韋軒先生の魅力

秋月悌次郎の号は韋軒です。明治後は韋軒の号で呼ばれることが多く、秋月韋軒の方で著名となりました。また、名は「胤永」で、正式には秋月胤永です。悌次郎は幕末の武士だった頃の通称です。

熊本五高へは明治23年(1890)に67才の時に請われて赴任しました。ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲と同僚でした。夏目漱石は悌次郎の退任後に赴任してきたので、同僚として同じ教壇に立つことは有りませんでした。

悌次郎の才能は、幕末明治の動乱期には合わず、いたずらに東奔西走しただけで終わりましたが、その人格と見識の高さから、明治に入っても敬慕する人が多くいたと言われています。

長岡・北越戦争

長岡・北越戦争

戊辰戦争の天王山となったのが北越戦争でした。秋月悌次郎も会津藩の特使としてこの戦争に加わりました。

北越戦争は長岡藩が旧幕軍の主力となって官軍と戦った戦争で、悌次郎の会津藩は自らの死命を制する戦いであったにもかかわらず、中心戦力とは成得ませんでした。

これは長岡藩の軍事力が旧幕軍側のどの藩よりも協力だったことと、長岡藩総督の河井継之助の能力が他藩の誰よりも上回っていたからでもありますが、会津藩の切り札とも言うべき悌次郎の名が北越戦争では殆ど見られないことは、悌次郎と会津藩の限界も示すものでもありそうです。

八十里越え

八十里越え

北越戦争に敗れた旧幕軍は八十里越えを通って会津藩領の只見へと逃げてきました。
現在でも只見側の八十里越えの入り口には、番屋が保存されています。

冬の斜里

冬の斜里

京都の政争のさなか、後ろ盾のなる家老の横山主税が無くなると失脚して、蝦夷地の斜里へと左遷されます。会津藩内に敵が多かったためと言われています。

当時の北海道は蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、知床から稚内までが会津藩の管轄となっていました。斜里はこの会津藩の管轄地を統べる役所が置かれていました。

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