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間宮林蔵と北海道

間宮林蔵と北海道

宗谷岬の間宮林蔵の立像

宗谷岬の間宮林蔵の立像

北海道を訪れる旅人が1度は目指すのが宗谷岬でしょう。わたしも初めての北海道ツーリングは太平洋岸からオホーツク海岸に沿って、宗谷岬を目指して走っていました。

宗谷岬には日本最北の地の記念碑の他に、写真の間宮林蔵の銅像も建っています。間宮林蔵は間宮海峡の発見者ということからも分かるとおり、北海道(当時は蝦夷地)や千島列島などの北方探検家として歴史上に大きな足跡を残しています。

間宮林蔵、樺太へ渡る

間宮林蔵、樺太へ渡る

宗谷岬の西の海岸に間宮林蔵が樺太へ渡った事を記念する石碑が建っています。間宮林蔵は上司の松田伝十郎と共にここから樺太へ小舟で出船し、早朝にでて夕方には樺太に上陸しました。

樺太に渡った林蔵は樺太がユーラシア大陸の一部である半島ではなく、狭い海峡で隔てられている島であることを発見しました。この時発見された海峡は、のち、シーボルトによってヨーロッパに紹介され、国際的に認められた地名として「間宮海峡」の名が付けられました。

運命の皮肉

運命の皮肉

ところで間宮林蔵が隠密だったと言うことは余り知られていないようです。隠密としては歴史の表舞台には現れませんでしたが、有名な事件の一方の当事者でした。

1824年、ドイツ人のフォン・シーボルトが来日して鳴滝塾を長崎で開設し、江戸時代の日本の医学の発展に大きく貢献しました。一方でシーボルトは、オランダ政府から日本の物産の調査を依頼されてもいました。スパイというと大げさな役割で、調査員といった仕事の内容だったのですが、当時の鎖国下の日本では、他国人が日本の物産を調査することは法的に認めていませんでしたので、非合法的な仕事となりました。

シーボルトは鳴滝塾で教えていた人たちに様々な資料や物産を提出させていましたが、その中に伊能忠敬が制作した日本の沿岸地図がありました。

この沿岸地図を極秘裏に持ち出そうとしたことを、間宮林蔵は突き止めました。当時の法律では日本の地図を国外へ持ち出すことは違法行為でした。もっとも国の沿岸地図というのは、この時代の日本に限らず国防上の機密と言えました。明治時代から戦前にかけて、地図を作製していたのは陸軍だったことでこれはおわかりいただけると思います。例えば精密な日本の沿岸地図が有れば、外国の軍艦が日本の港に容易に進入して、町を艦載砲で焼き払うことが出来てしまいます。

(ただし実際には地図だけでなく、将軍からある人が拝領した品々をシーボルトが手に入れていた、等の余罪もあり、むしろこちらのほうが罪が重かったとも言われています)

シーボルトは複数の地図を手に入れていたので、没収されなかった地図はヨーロッパに渡り、その精密さはヨーロッパの研究者達を驚嘆させたそうです。このとき、樺太が半島ではなく島であり、発見者の名を取って「間宮の瀬戸」と名付けられました。

間宮林蔵は偉大な探検家でしたが、本人は隠密の仕事こそ我が人生をかけるに足りると考えていたそうです。ちなみに間宮林蔵は伊能忠敬の弟子として、北海道の沿岸地図の作製にも関わっていました。

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