ツーリングトーク バイク談義

オートバイの整備とキャンプのノウハウ

長岡の河井継之助

北海道ツーリング2011

長岡の河井継之助

2011/08/04 600 km 天候:土砂降りの後晴れ
八王子−新潟−長岡

越後の平野

長岡の河井継之助

早朝の新潟発、小樽行きのフェリーに乗るつもりだったが、途中の高速道路で豪雨にあったりして送れてしまい、10分の差で乗船することが出来なかった。
フェリーはまだ出船していなくて目の前に停泊をしているのだが、出船の準備を始めていて、オートバイを乗船させるために橋梁が取り外されていた。

3時間、休憩なしで走り通した疲れもあって、しばらく呆然としてしまったが、深夜の苫小牧東港行きの便までの時間の過ごし方を考えた。

そうだ、長岡へ行こう。

長岡城跡

長岡の河井継之助

新潟から長岡までは結構な距離がある。徒歩で歩くと1泊2日は掛かる距離らしい。
長岡に来るのは今回が三度目だが、中越震災の当日に長岡に来る予定だった。あのときは虫が知らせたのか当日になって予定を変更して山形県に行った。食事をしている時にどかんと揺れて驚いたが、まさか中越が壊滅するほどの地震が起きたとは知らなかった。

翌週、災害ボランティアで長岡を訪れたが、国道や県道に亀裂が入っていて、しかもその亀裂のある道路使わざるを得ない状態だった。

長岡に特別の重い入れがあるのは、ここが河井継之助の活動の場であり、北越戦争の戦場だったからだ。幕末維新の英雄豪傑には坂本竜馬や西郷隆盛、勝海舟など好きな人物は幾人もいるが、足跡をわざわざ訪ねるほど興味を持っているのは河井継之助くらいだ。
なぜこれほど興味を持っているかは、自分でも分からないことが多い。

長岡の地は北越戦争で一度焼け、第二次大戦の時の空襲で完全に灰になったところなので、長岡城の跡というのも残されていない。同じ様な経歴を持つ栃木の宇都宮市も宇都宮城は城壁、堀を含めてなにも残されていない。
長岡駅のあるところが長岡城の有ったところだという。

河井継之助記念館

長岡の河井継之助

長岡の地理は皆目分からないので、駅の観光案内所で河井継之助のゆかりの地の教えて貰った。長岡と言うところはこれと言った名勝旧跡の無いところなのだが、ちゃんと観光案内所があるのが面白い。
以前に来た時にはなかった河井継之助記念館が出来ている事が分かった。駅から徒歩で数分のところだが、オートバイの駐車が出来ると言うことなので、オートバイで行くことを進められた。この辺りの優しさは長岡人らしいのかもしれない。

河井継之助記念館の受付の方の話を聞く。
5年前に出来たという。すぐ近くに山本五十六記念館があるが、それよりも数十年も後になってようやく建設したのは、河井継之助が“賊軍”だったからだと言うことだ。21世紀になって賊軍という言葉がまだ生きていることに衝撃を受ける。勝利者の薩摩人も長州人も現代の世に自分たちを“官軍”とは言わないだろうし思っている人もいないと思うが、敗者の側は、そうした記憶を忘れないのだ。
この辺りの機微は会津人にも共通しているのではないだろうか。

山本五十六も戦死をしなければ戦犯となっていたはずで、そうなれば記念館などは作れなかったろうという話も聞いた。現代では山本五十六が徹頭徹尾、三国同盟反対、日米開戦回避の立場を堅持し、行動していたことは周知の事実だが、アメリカ人にとっては真珠湾奇襲作戦の立案者とし戦犯にしたかったろうと言うことは想像に難くない。

司馬遼太郎著「峠」

長岡の河井継之助

河井継之助は時流に逆らい薩長と対戦する事について、百年の後の歴史に評価をして貰おうと言う、東洋的な史観を持っていた様だが、その河井継之助を英雄児とした小説が世情に現れたのは、没後百年を少し経過した1966年から1967年にかけて書かれた司馬遼太郎著の「峠」だ。わたしもこの小説の愛読者の一人で、河井継之助に興味を持ったきっかけと言っていい。

峠の影響は大きかったらしく、それまで賊軍の総大将、長岡という新潟の中の一地域のローカルな豪傑程度の存在だった河井継之助が全国的な英雄児として広く知られるきっかけとなった。
受付の方は何度も「峠のおかげで」と言っていたのが印象的だ。

歴史を冷静に評価するには数十年から時に百年以上の歳月が必要らしい。山本五十六が河井継之助を敬慕していたことは広く知られているが、山本が公に河井継之助を幕末維新期の第一等の人物ではないか、再評価しても良いのではないか、と新聞の取材に応じて話したのは海軍次官だった時で、同じ時期に河井継之助の臨終の地の福島県只見町塩沢に記念碑を建立している。賊軍だった人物の再評価を口にするには昭和10年代にまでくだらなければならなかったらしい。

その「峠」の文学碑が信濃川に掛かる橋のたもとに建てられている。とても小さく地味な石碑で、看板も案内板も何も立っていない。この橋は2度3度通ったことがあるが今まで気がつかなかった。今回も位置を教えて貰っていなければ分からなかっただろう。
ここには峠の著者の司馬遼太郎氏の文章が銅板となって飾られている。
文学碑の「武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後を見事に表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語り続ける道をえらんだ。」と言う下りを読んで、「峠」のなかで違和感を覚えていた部分が氷解した。

ガットリング砲

長岡の河井継之助

河井継之助と聞いてまず思い浮かべるのはガトリング砲ではないだろうか。只見町にある河井継之助記念館にもNHKの大河ドラマで使われたというガトリング砲の模型が飾られている。

ここ長岡の記念館にも飾られているのだが、金色の方針に朱色の砲尾とカラフルだ。触ったり、ハンドルを回して操作をできる様になっているので、早とちりにも子ども向けの色にしたのだろうと思っていたら、河井継之助が実際に使用したガトリング砲と大きさや細部や色を忠実に再現したものだという。
小銃や大砲は黒いものという先入観があったらしい。

長岡藩の人物

長岡の河井継之助

ここの記念館には河井継之助の直筆の手紙や建白書、筆者本などが展示されていて、筆跡から人柄を想像することが出来る。
河井継之助という人は堅い人物というイメージをなぜか持っていたのだが、小山良運などに宛てた手紙の文字を見ると、とても友人達といる時はずいぶんとおどけたこともする人だったのではないかという気がしてくる。

筆写本や建白書の文字を見てみると、無骨な楷書で書かれている。
硬軟を使い分けられる人物だったらしい。

手紙の展示というと、高知市にある坂本竜馬記念館の坂本竜馬の手紙が量も多く、内容も面白いのだが、ここの記念館も3度も街が焼けたことを考えると、よくこれだけそろえたものだと感心させられる。

河井継之助と同時代の長岡藩人が、写真を添付して略譜が飾られている。河井継之助と政策で反対の立場をとった米百俵で有名な小林虎三郎やアドバイザーとして終始助けた小山良運など、こんな顔をしていたのかと興味を持ってみることが出来る。

他にも長岡城下の街の地図が掲載されていて、各自の自宅の位置が分かる。

  1. 次のページへ >>

このエントリーをはてなブックマークに追加