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河井継之助 -峠-

河井継之助 -峠-

奥只見のガトリング砲

奥只見のガトリング砲

河井継之助は幕末で最も激しい戦いと言われている北越戦争を主導した人物です。河井継之助の記念館が、新潟から峠を越えて会津盆地に入る途中に通る只見町高塩にあります。
越後から峠を越えて会津に入るとすぐに蒲生山という奇岩で覆われた山が左手に現れます。標高は800mほどの低い山なのですが川幅の広い只見川に面しているためとても高く感じます。記念館はこの蒲生山の麓にあります。

この記念館には復元されたガトリング砲が展示されています。このガトリング砲はNHK大河ドラマ「花神」で使用されたものです。わたしは機関銃の原型と聞いていたので、ここで複製を見るまではもっと小さな武器を想像していたのですが、当時はガットリング砲と大砲と同じ扱いをしていた理由が、その大きさと台座の頑丈さから分かりました。越後の長岡藩総督の河井継之助の記念館が会津只見にあるのは、この辺りが継之介の臨終の地だったからでしょう。会津の方の人の細やかさがこれで伺えます。

このガトリング砲は南北戦争当時のアメリカで発明されました。開発者は医師のガトリングさんです。しかし当時は電動モーターなどはなく、回転する砲身は手で回さなければなりませんでした。精密機械のように一定の早さで回さなければすぐに装弾不良等が発生して、弾丸の発砲が出来なくなりました。

銃弾や砲弾が飛び交う戦場でそんな冷静な人間が要るはずがありません。アメリカの南北戦争や日本の戊辰戦争で一部実戦に参加しただけで、その後長くガトリング医師の研究成果は忘れられていました。

河井継之助のその後

河井継之助のその後

河井継之助という人は天地がひっくり返ったと言われるほど激しい北越戦争を起こしたことで有名です。明治の元勲、山県有朋もこの戦争に参加していましたが、なんどもだめだと思ったそうです。河井継之助は北越戦争で負けた後、再起を図るため会津若松を目指したそうですが、北越の地で足に受けた銃創が原因で、途中で息を引き取りました。

奥会津の只見町塩沢には継之介の墓石がひっそりと残されています。

長岡藩総督河井継之助碑

長岡藩総督河井継之助碑

福島県会津若松市の東の山麓にのこる長岡藩総督河井継之助の碑です。近くにある近藤勇や土方歳三の墓石が人の列を作っているのに比べ、こちらはひっそりとしています。

山田方谷

山田方谷

岡山県高梁市(備中松山)に方谷駅という無人の駅があります。
昭和の初めに伯備線が開通したときに出来た駅で、30年ほど前には駅長さんが居たようです。

わたしがここを訪れたのは全くの偶然で、駅の裏山に林道があるからでした。駅前のわずかなスペースでずいぶんと長い休憩を取った記憶があり、駅や駅の周りの風景も良く覚えているのですが、河井継之助がここで数ヶ月を過ごしていた事は、そのときは失念して思い出す事もありませんでした。

この方谷駅は日本で唯一の人名を冠した駅名を持っています。
駅名の由来は山田方谷という備中松山藩の財政家から来ています。山田方谷は幕末維新の激動期に徳川幕府の首相的な立場にあった板倉周防守の謀臣として、また備中松山藩の財政を立て直した財政家として活躍した人です。

河井継之助は山田方谷から教えを受けるため備中松山藩まで来ましたが、たまたまそのとき山田方谷が開墾をこの方谷駅があるあたりで行っていました。現在の方谷駅はこの時期の山田方谷の屋敷の跡に建てられたそうです。

駅は深い谷の底にあり、脇には高梁川が流れています。
駅の周りに平坦地はなく、山田方谷がいったいどのように開墾を行ったのか、地形を見ただけでは想像も出来ないほど、農業には不向きな場所です。

河井継之助はこの地で財政家としての手腕をふるえる基礎を身につけたと言われています。山田方谷から細々とした教えは受けませんでしたが、百聞は一見にしかずのことわざの通り、山田方谷の日常から得るものが多かったのでしょう。

のちに河井継之助は長岡城内にたくさんの1万両箱を積み、その豊かな財政を基礎に精強な長岡軍を作り上げ、北越戦争に望みました。

なお、写真は方谷駅の裏山を深く入ったところにある集落内の林道の入り口です。

長岡城跡

長岡城跡

北越戦争と第二次大戦の長岡空襲で2度に渡って被災した長岡に城下町の面影は残っていませんが、長岡駅前の噴水の脇にわずかに石碑が建っています。この辺りの地面を河井継之助が踏みしめて居たのかと思う瞬間です。

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