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西郷隆盛 -翔ぶが如く-

西郷隆盛 -翔ぶが如く-

南洲遺屋と江戸時代の奄美大島

南洲遺屋と江戸時代の奄美大島

上野の山の銅像でおなじみの西郷さんは戸籍上の本名は西郷隆盛でしたが、その生涯で自分からは1度も隆盛の名は用いずに、通称の吉之助を使っていたそうです。

西郷隆盛は2度、遠島になっていますが、最初の遠島先が奄美大島の龍郷町の海岸沿いでした。身長180cm以上、体重も100kgを優にこえる巨漢と伝えられていますが、奄美大島に残る蟄居跡は小さな家屋で、それほどの巨漢が住んでいたとは思えないほどです。

掲載した画像は奄美大島の南洲遺屋です。南洲は西郷隆盛の号で、勝海舟(義邦)などと同様です。

西郷隆盛は奄美大島に配流中、薩摩藩が奄美大島の住民を奴隷同様に扱うことに非常な憤りを感じました。西郷は正義感が強く、不正を憎むことが甚だしい性格でした。このときに感じた義憤が体の中に残り、後の討幕運動のエネルギーに多少なったのではないかと思います。

奄美大島の人々は換金作物のサトウキビや甘藷の植え付けを強制され、とれた作物は全て信じられないほどの安値で薩摩藩に買い取られて行きました。サトウキビを住民が食べたりすると罰せられるので、自分たちが作っているサトウキビの味を知らなかったと言われています。

西郷と鉄砲猟

西郷と鉄砲猟

西郷隆盛は明治維新後、鉄砲猟によく行ったと言われています。
特に故郷の鹿児島県に帰ってからは、桜島の黒神に行くことが多かったそうです。

ここに取り上げた写真は、桜島の黒神の鳥居です。
大正時代の大噴火のために、ほとんどてっぺんまで溶岩で埋まってしまっています。観光ガイドには必ず掲載されているので、ご覧になった方も多いと思います。

西郷隆盛もこの鳥居の周辺できっと猟をしたに違い有りません。
ただ、西郷が歩いた道や森林は、今では全て溶岩の下に埋もれてしまっています。
もし、桜島を訪れたて黒神の鳥居を見たなら、西郷隆盛がこの溶岩の下の地面を歩いていたと思い出すのも一興と思います。

西郷に見る歴史の多面性

西郷に見る歴史の多面性

西郷隆盛は歴史上の偉人、或いは聖人、哲人と呼ばれて今でも人々の尊敬を受けています。わたしも西郷に関する書籍を読んだり、足跡を訪ねたりしている、敬愛する一人です。

その西郷が西南戦争を起こしたことは有名ですが、西南戦争のさいの激戦地の一つがこの熊本城でした。
熊本城でたまたま話をした地元のおじいちゃんは西郷を大変に嫌っていて、とても驚いたことがあります。わたしはこのときまで、西郷は日本中で人気があると思っていたからです。今でも戊辰戦争当時に西郷が指揮官を務めていた庄内地方などでは、西郷に対する人気は大変なものです。

西郷軍にとって熊本は中央に進撃する通り道だったかもしれませんが、熊本に住む人々にとっては純然たる侵略軍でした。当時の軍隊は現地調達といって、侵略した先々で食料や金銭を略奪し、婦女暴行を繰り返していました。被害者が侵略軍を恨むのも当然といえるでしょう。

韓国で西郷隆盛と福沢諭吉が嫌われていることは知っていましたが、同じ日本国内でも、英雄、偉人と呼ばれる人物が一方では侵略軍の総帥として嫌われているという、歴史の見方の多面性を知りました。

江戸城受け渡し

江戸城受け渡し

西郷の人生でのピークが、写真の江戸城の引き渡しでしょう。勝海舟は後年、「西郷だからすらすらと江戸城が引き渡せた、他の人だったらああは行かなかったよ」と言っています。

彰義隊戦争

彰義隊戦争

江戸城受け渡しの直後に行われた彰義隊との戦いから、西郷の運命が下り坂となった様な気がします。この戦いで西郷は、寛永寺の大手門にあたる黒門を攻撃する薩摩隊を指揮しました。

彰義隊戦争までは江戸城の官軍の最高指揮官は西郷だったのですが、京都からやってきた大村益次郎が指揮官の地位を取って代わりました。これ以後、北越戦争、会津戦争、函館戦争などは、江戸城から大村が指揮を執り、西郷の出番はなくなりました。激戦が長く続いた北越戦争では、西郷は郷里の鹿児島に戻り、一隊を組織して新潟まで出かけたりしています。

大村益次郎と西郷との出会いは、ある意味では運命的でした。大村は西郷の配下の有村俊斎に暗殺され、西郷は西南戦争で、大村が西郷の決起を予想して準備した大坂の兵器廠が作り出す大砲や小銃やその弾で敗退しました。

こうした点を考えると、上野の山の黒門跡に建つ西郷隆盛の銅像は、とても奥深い寓意があるように思えます。

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