北川河畔
明治10年の西南戦争の末期、西郷隆盛と薩摩軍は宮崎県北部の北川村の北側河畔に追い込まれていました。ここから九州の険しい山岳を縦断して鹿児島市の城山まで踏破しました。
「翔ぶが如く」に踏破したルートが記載されていて、たまたまわたしがそのルートの山岳路に当たる道路をほぼ全て撮影していましたので、ここに紹介します。
最初の写真は北側に架かる沈下橋です。この沈下橋は西郷宿椹後の5kmほど北にありましたが、撮影当時、この沈下橋と平行した橋梁の建設を行っていたので、もうなくなっているかもしれません。
西郷隆盛と薩摩軍は北川から西に進み、可愛岳を越えて高千穂へと向かいます。この間を直接結ぶ道路は昔も今も有りません。西南戦争の当時は、尾根筋の木こり道や獣道を歩いたと言われています。
現在は、かろうじて写真の桧山林道が有ります。桧山林道は可愛岳の西、桧山の頂上付近を東西に通る林道です。驚くほど勾配のきつい道路で、落石も多数あり、一般の自動車の通行は限りなく難しいでしょう。
高千穂町(当時は三田井)郊外の山村の風景です。市街よりもむしろ、明治十年当時の面影を残しているのではと思います。
西郷隆盛と薩摩軍は高千穂を最初の目標として進み、ここで鹿児島市内へ帰還することを正式に隊士に表明したと言われています。
高千穂から大仁田山を越えて南郷村鬼神野へ至るルートで、写真は大仁田スカイラインです。
大仁田スカイラインの通る飯干峠、小原井峠の前後は殆ど人家はない深い山が続きます。
鬼神野を南に下ると銀鏡川(しろみ)に至ります。銀鏡川の西にある赤髭山を越え米良街道へ通り抜けたと言われます。
写真は赤髭山の頂上付近を通る赤髭山林道の支線から見た現在の白銀川(一ツ瀬ダム)です。
H.N.うーたん(Yuichi Mizunuma)
当サイトの執筆・撮影とシステムの製作等全てを行っています。林道への案内板やクライミングトークのWebMasterでもあります。使用バイクのジェベルXCは1997年型、2002年型と乗り継ぎ、三台目の2004年型のジェベルXCを売却して、現在はバイクツーリングには行っていません。、これまでのツーリングの総走行距離は約21万kmです。
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2013年まで、春夏秋冬、北海道から九州沖縄まで、ツーリング・登山・サイクリング・パドリング(カヤック)をしています。年間のテント泊数は40泊から60泊程度、日帰りを含めると年間80日くらいはアウトドアにいました。
現在は東京都八王子市高尾に在住しています。オートバイから少し離れていて、主に登山とサイクリングを趣味にしています。
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