浦賀
日米和親条約を結んだペリー提督は、押し込み強盗道前に日本にやってきて条約を結んで帰っていった人物なのですが、なぜか日本では高い人気を維持しています。かく言うわたしもペリー提督と当時の合衆国東洋艦隊は嫌いではありません。
ペリー提督とその艦隊は、浦賀の他にも琉球と函館に立ち寄っています。当時鎖国をしていて、外部から見られることが非常に希だった日本をつぶさに観察し記録にとどめたことは、とても価値ある事でした。
写真は浦賀に発つペリー提督の上陸を記念する石碑です。明治34年(1901)7月4日、アメリカの独立記念日に合わせて建立されたもので、題字は伊藤博文です。この石碑は日露戦争の前に建てられたもので、日露戦争ではアメリカは日本に対して好意的中立を保ってくれ、和平の斡旋もしてくれました。
しかし、日露戦争後、日米の双方が相手国を仮想敵国として軍備(主に海軍)を増強し、やがて両国関係は緊張し、戦争という結果を迎えてしまいます。石碑の建立から日米開戦まで40年しか有りませんでした。
浦賀のペリー提督の上陸記念碑と同じ敷地に建つ小さな記念館です。館内にはペリー提督来航の時に撮影された写真や描かれた絵が展示されています。また、当時の江戸と浦賀の立体的な地形模型が展示されていて、ペリー提督とその艦隊の来航の様子を視覚的にとらえることが出来ます。7隻の軍艦の模型など、見ていて楽しくなる展示が多くあります。
ペリー提督とその艦隊は浦賀の前に、琉球王国を訪れています。琉球王国は艦隊の入港を拒みましたが、1853年5月26日に那覇港に入港しました。ペリー提督はさらに琉球王国の反対を押し切って首里城を訪れました。他国の政府の意向など何処吹く風と言ったところで、正に傍若無人です。
琉球王国は薩摩藩を通して江戸幕府と連絡をとりました。その間、ペリー提督と艦隊の乗組員を歓待し、4回のもてなしをしました。それに対しペリー提督がわは2回の饗応しました。礼の国「琉球王国」の面目躍如ですが、ペリー提督がわでも礼を逸することはなかったようで、この辺も後世の人気の高さに結びついているのかもしれません。
ペリー提督とその艦隊は中城城を測量して、「要塞の資材は石灰石であり、その石造建築は賞賛すべき構造のものであった」と「日本遠征記」に書かれています。
他国の要塞を勝手に測量するという国際法を無視した行為を行っていながら、後世、それが中城城の価値をさらに高めるのに一役買ってしまうということも、ペリー提督ならではなのかもしれません。
日米和親条約を結んだ後、嘉永7年(1854)、ペリー提督とその艦隊は函館に入港しました。
函館の港と町の様子の他、応対した人物がよほど印象深かったらしく、「日本遠征記」に応対した人物が「二人の高官の紳士的な態度と知的な物腰」と書かれています。
函館では、元町の旧函館区公会堂の下にある広場をペリー広場と名付けています。広場には「ペリー提督来貢記念碑」とかかれた、2004年に建てられた小さな銅像があります
H.N.うーたん(Yuichi Mizunuma)
当サイトの執筆・撮影とシステムの製作等全てを行っています。林道への案内板やクライミングトークのWebMasterでもあります。使用バイクのジェベルXCは1997年型、2002年型と乗り継ぎ、三台目の2004年型のジェベルXCを売却して、現在はバイクツーリングには行っていません。、これまでのツーリングの総走行距離は約21万kmです。
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2013年まで、春夏秋冬、北海道から九州沖縄まで、ツーリング・登山・サイクリング・パドリング(カヤック)をしています。年間のテント泊数は40泊から60泊程度、日帰りを含めると年間80日くらいはアウトドアにいました。
現在は東京都八王子市高尾に在住しています。オートバイから少し離れていて、主に登山とサイクリングを趣味にしています。
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