鶴ヶ城天守閣
会津若松のまちと鶴ヶ城は近江の人(滋賀県)の蒲生氏郷がつくりました。氏郷は織田信長の娘婿で文武両道の達人だったと言われています。
鶴ヶ城の北の路地にひっそりと氏郷の墓所が守られています。没後400年を過ぎていますが、花が生けられています。
蒲生氏郷が野原からつくった町が伊勢の松坂です。松坂は優れた都市設計によって現代でも高名な町です。氏郷が会津若松の城下町を整備するに当たっての原型とも言えるかもしれません。
写真は松坂城から松坂の町を見たところです。
蒲生氏郷の入部の前、会津若松は黒川と呼ばれ芦名氏の城下町でした。芦名氏は鎌倉時代から続く名家でしたが、陸奥の雄の伊達政宗に滅ぼされてしまいました。芦名家の廟所がひっそりと残されています。
白虎隊の悲劇で有名な飯盛山から鶴ヶ城を中心に会津若松の町を見たところです。
江戸時代から明治時代になるときにおきたのが戊辰戦争です。会津藩はその渦中にいました。薩長土の官軍に対抗して奥羽北越列藩同盟が結成されましたが、そのなかの有力な盟友が米沢藩でした。
写真は米沢城です。
奥羽北越列藩同盟のもう一つの有力な盟友が仙台藩でしたが、仙郷が悪化するにしたがい、米沢藩も仙台藩も脱落し、会津藩は孤立無援となりました。
会津藩は幕末、京都にあり新撰組を支配下に置き京都守護代として治安の維持に当たっていました。この時期、会津藩士、新撰組隊士に最も数多く命を絶たれたのは長州藩士でしょうか。長州藩はやがて官軍として会津藩との戦争に入りました。
写真は今も江戸時代の面影を残す萩の武家町です。
薩摩藩は蛤御門の変では会津藩の同盟者でしたが、戊辰戦争では敵となりました。明治10年の西南戦争では、「戊辰の敵」の合い言葉に会津武士が多数、九州の地に渡り戦争に加わりました。写真は桜島の中腹から鹿児島の町を見たところです。
土佐人坂本竜馬の暗殺は新撰組の手によって行われたと思われていました。このため新撰組局長の近藤勇は名誉ある切腹ではなく斬首されたと言われています。実際、坂本竜馬は見廻組の手で暗殺されたのですが、土佐脱藩の浪士が多数、新撰組や会津藩士の手で命を絶たれたことは事実でした。このため、会津戦争で土佐人が会津人を憎んだことは長州人に劣らないと言われています。
新潟県柏崎の西の鯨波(くじらなみ)では、北越戦争の最初の激戦が戦われました。鯨波には会津藩士と桑名藩士が陣地を構築して固く守備していましたが、海から軍艦の艦砲射撃を受け敗退したと言われています。
鯨波は山が勢いを失わず、そのまま海に落ち込む地形です。
戊辰戦争の敗者となった会津藩士は、藩ごと青森県下北半島に配流されました。当時も今も下北半島は寒冷の地で、夏でも気温が10℃を下回ることもあります。
写真は今もむつ市の北に地名として残る斗南の農村の風景です。
明治10年、戊辰戦争の英雄、西郷隆盛が反乱に立ち上がりました。西南戦争です。会津藩士は戊辰戦争で鬼官兵衛の異名をとった戦の名人、佐川官兵衛を中心に警視隊として請われ戦場に赴きました。官兵衛は写真の久住高原で奮戦の末、没しました。
官兵衛の人柄は僅か数日ふれただけの久住高原の人々にも深く愛されたと言われています。
H.N.うーたん(Yuichi Mizunuma)
当サイトの執筆・撮影とシステムの製作等全てを行っています。林道への案内板やクライミングトークのWebMasterでもあります。使用バイクのジェベルXCは1997年型、2002年型と乗り継ぎ、三台目の2004年型のジェベルXCを売却して、現在はバイクツーリングには行っていません。、これまでのツーリングの総走行距離は約21万kmです。
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2013年まで、春夏秋冬、北海道から九州沖縄まで、ツーリング・登山・サイクリング・パドリング(カヤック)をしています。年間のテント泊数は40泊から60泊程度、日帰りを含めると年間80日くらいはアウトドアにいました。
現在は東京都八王子市高尾に在住しています。オートバイから少し離れていて、主に登山とサイクリングを趣味にしています。
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